大成神宮の歴史

むかし、この大成の里には、ただ風の音と獣の声だけであり、太古以来人影のない土地だった。
ここは標高約1,000メートルもある高地で北西に面し、冬はとても寒く到底人の住めそうな所ではなかった。
この大成を、慶長5年、中川主膳正直清公とその家臣たちが拓いて村里とした。
今から400年ほど前のことである。
清和源氏の名流中川氏は、代々御所をお守りする衛門府に仕えていた。
戦国時代に伊予河野家の武将となり、弘冶2年の春、現代においてさえ、なお秘境に名に値する予土の境、
柳谷村猪伏にわけ入り、天嶮の山上に大成城を築き、機略縦横の戦いによって、勇猛な土佐の一条、
本山勢の襲撃を退け、ついには四国の虎と呼ばれた長曽我部元親の大軍をも敗走させた。
しかし、天正13年秋、河野氏が没落したため、主膳正は大成城を出て面河村の昼ノ野に帰農した。
ところが、慶長5年、関ヶ原の戦いのおり、嫡男の中川淡路守義清が松山の荏原で主家再興の戦いをして敗れ、
再起を期す主膳正とその郎党は残党狩りを避けて、この地に隠れ住んだ。
そしてかつての大成城を偲び、この地を大成と呼ぶ事にした。
それは、人目を避け、その鳴き声をはばかって鶏さえ飼わぬという落人の里ぶりが現代まで続いた。

大成神宮の由来

  • 大成神宮の由来

    大成の里の開基、主膳正源直清公は伊予の大領河野家の武将でした。
    戦国時代予土の国境、柳谷村猪伏に天檢の山城「大成城」を築いて、
    7度にわたる土佐勢の猛攻をことごとく退けましたが、天正13年、
    主家滅亡により面河村の昼の野に帰農しました。
    このあと、慶長5年、松山郊外の荏原城で河野再興の戦に破れた公は、
    昼の野の裏山を越えて人跡未踏のこの地に分け入り、一党の隠れ里としました。
    そして大成城を懐古して里の名を大成としたのです。
    そのとき、直清公は山容の険しい気多山を仰ぎ、その山腹に巨大な岩盤を発見して
    源氏の氏神、大成八幡宮を建立しました。
    それに山里の守護として大山積神、礼儀学問のおろそかなることを恐れて
    菅原道真公を合祀しました。

  • ところが、幕末の頃、この宮に不思議なことがしきりに起こり、これを畏れた里人はそこから南西100メートルのところに社を遷しました。
    そして、直清公を併祭して六社神社としたのです。
    この六社神社は、社殿の結構壮麗な事から郡内第一の宮といわれましたが、大正3年失火により焼失しました。その後、わが国は動乱激動の時代に遭遇、さらに戦後の混乱、住民の過疎化と神社再建の機会を失ったまま現在に至りました。
    このたび、天真会が慶長創建の地に再建を発願し、平成5年10月に工を起こし、平成7年5月竣工、新たに皇祖二柱を合祀し、天真会名誉総裁・伏見博明殿下の思し召しにより、ご神号を四国一の宮 大成神宮としました。
    大成神宮は、古くから「大成の六社さん」と呼ばれ、人生の大成・勝利の神として広く世の崇敬をあつめていました。大成神宮は、これからも皇運の弥栄と人類永遠の福祉を祈る本宮として、多くの人々の心のよりどころに成るものだと思います。

    大成神宮の由来

懐古大成城の歌

大成神宮の由来

作詞・長岡 悟
作曲・崎出 伍一
二胡奏者・曽朴

天真会の長岡悟会長の遠祖 中川主膳正源直清公が、 弘治年中(400年ほど前)予土の境にある上浮穴郡西谷の猪伏山に築いた大成城を懐古して作詞をし、 会長の友人である国際音楽芸術家協会の崎出伍一先生が作曲をしたものです。

1.若葉のそよぎ 谷の音
 予土の境の 山高く
 白雲流る 神山の
 大成城址 春深し

2.すぎし昔の 古戦場
 干才交える つわものの
 鼓角のひびき 今はなく
 夏草しげし 城のあと

3.草枯れ色も うつろいて
 星霜ここに 四百年
 猪伏の山に 月冴えて
 風悲し 城ヶ森

4.雪吹く風に ひるがえる
 柏の紋と 日の丸の
 武勲を語る 旗風に
 遠つ祖先を 偲ばばや